先日、パリオリンピックが開幕しました。
個人的にはバスケットに注目しています。日本チームもさることながら、男子アメリカ代表がアツい! NBAで活躍するスター選手が勢ぞろいするチームがどれほどの活躍を見せてくれるか、今から楽しみで仕方がありません。
そこで、今回の「こばなし」はオリンピックにまつわる話をしようと思います。
2021年の東京オリンピック。日本選手団は輝かしい結果を残してくれましたが、今回お話しするのは、東京招致決定までのプロセスです。何よりも印象的だったのが、招致が決定した際の、招致アンバサダー太田雄貴選手の姿でした。
太田選手はアンバサダー就任当時フェンシングの選手として活躍していました。オリンピック開催予定の2020年には34歳となり、アスリートとして現役で活躍している可能性は低かったでしょう。太田選手自身は「活躍できるうちは若い選手の壁となって頑張る」という旨の発言をされていましたが、残された時間もそれほど長くない中、なぜ太田選手はオリンピック招致委員という大役を引き受けたのでしょうか。
太田選手は、自身が出場した3度のオリンピックを振り返ってこんなコメントを残しています。
「1回目と2回目はただ競技をしていただけでした。自分が勝ちたいと思うだけで、人間としても未熟でした。」
自身の技量を研ぎ澄ますことだけにこだわり、それ以外のことは二の次。勝負の世界を生きるアスリートとしては仕方ないことかもしれませんが、「他人を寄せ付けない孤高の剣士」と彼を揶揄する声もあったそうです。
そんな彼の心を変えたのは、あの東日本大震災でした。
震災の時、太田選手はドイツ遠征中。テレビでは被災地の悲惨な様子が連日放映されていました。
遠い故郷で苦しんでいる人がいるのに何もできない無力感に苛まれ、家族と連絡の取れない被災地出身の仲間と涙し、「被災地のために何かがしたい。被災地の人々が笑顔になるために動き出そう」と思うようになったそうです。
被災地への思いを胸に臨んだロンドン五輪で、太田選手は個人で3回戦にて敗れたものの、団体では見事銀メダルを獲得します。彼は4人で戦った団体決勝を振り返り、「僕自身のうれしさは(日本人として初めて銀メダルを獲得した北京五輪の)4倍です」と、団体でのメダルに大きな価値を見出していました。
その後太田選手は団体銀のメダルを携えて被災地に赴きました。
持ち帰ったメダルに被災地の子どもたちは目を輝かせ、口々に太田選手に「ありがとう」の言葉を投げかけました。
足しげく被災地に通い、子どもたちを勇気づける日々が続きます。そんな折に太田選手に届いた2020年東京オリンピックアンバサダー就任の要請。これは自分にしかできない使命と感じ、アンバサダーを引き受けたそうです。
そうして臨んだアルゼンチンでのIOC総会。最後のプレゼンテーションを前に、太田選手はこのような言葉を残しています。
「いよいよ決戦当日の朝を迎えました。勝負服の紺色ブレザーを着て。最後の最後まで戦い抜きます。仲間を信じて。」
自らの技量の向上のみを考えていた、かつての「孤高の剣士」の姿はそこにはなく、仲間を信頼し、周囲の人の応援を力に変え、目の前のことに全力で取り組む一人のアスリートの姿がありました。
「TOKYO!」
2020年東京オリンピック決定の瞬間。太田選手は席から立ち上がり、全身の力を込めてガッツポーズしながら、涙を流していました。
このエピソードに触れて思うのは、「自分のためではなく誰かのために行動する」というのはやはり格好いいなということ。
どんな行動でも、自分のためと考えるよりは、誰かのためというモチベーションがある方が、やる気にあふれ、パワーも満ち満ちてくるのでしょう。
啓明館のスローガンは「学力をもって“社会に貢献する”人材」です。
自分のためではなく、誰かのため。啓明館で学んだ生徒たちには、そんな行動ができる人になってほしい。心からそう願っています。
個人的にはバスケットに注目しています。日本チームもさることながら、男子アメリカ代表がアツい! NBAで活躍するスター選手が勢ぞろいするチームがどれほどの活躍を見せてくれるか、今から楽しみで仕方がありません。
そこで、今回の「こばなし」はオリンピックにまつわる話をしようと思います。
2021年の東京オリンピック。日本選手団は輝かしい結果を残してくれましたが、今回お話しするのは、東京招致決定までのプロセスです。何よりも印象的だったのが、招致が決定した際の、招致アンバサダー太田雄貴選手の姿でした。
太田選手はアンバサダー就任当時フェンシングの選手として活躍していました。オリンピック開催予定の2020年には34歳となり、アスリートとして現役で活躍している可能性は低かったでしょう。太田選手自身は「活躍できるうちは若い選手の壁となって頑張る」という旨の発言をされていましたが、残された時間もそれほど長くない中、なぜ太田選手はオリンピック招致委員という大役を引き受けたのでしょうか。
太田選手は、自身が出場した3度のオリンピックを振り返ってこんなコメントを残しています。
「1回目と2回目はただ競技をしていただけでした。自分が勝ちたいと思うだけで、人間としても未熟でした。」
自身の技量を研ぎ澄ますことだけにこだわり、それ以外のことは二の次。勝負の世界を生きるアスリートとしては仕方ないことかもしれませんが、「他人を寄せ付けない孤高の剣士」と彼を揶揄する声もあったそうです。
そんな彼の心を変えたのは、あの東日本大震災でした。
震災の時、太田選手はドイツ遠征中。テレビでは被災地の悲惨な様子が連日放映されていました。
遠い故郷で苦しんでいる人がいるのに何もできない無力感に苛まれ、家族と連絡の取れない被災地出身の仲間と涙し、「被災地のために何かがしたい。被災地の人々が笑顔になるために動き出そう」と思うようになったそうです。
被災地への思いを胸に臨んだロンドン五輪で、太田選手は個人で3回戦にて敗れたものの、団体では見事銀メダルを獲得します。彼は4人で戦った団体決勝を振り返り、「僕自身のうれしさは(日本人として初めて銀メダルを獲得した北京五輪の)4倍です」と、団体でのメダルに大きな価値を見出していました。
その後太田選手は団体銀のメダルを携えて被災地に赴きました。
持ち帰ったメダルに被災地の子どもたちは目を輝かせ、口々に太田選手に「ありがとう」の言葉を投げかけました。
足しげく被災地に通い、子どもたちを勇気づける日々が続きます。そんな折に太田選手に届いた2020年東京オリンピックアンバサダー就任の要請。これは自分にしかできない使命と感じ、アンバサダーを引き受けたそうです。
そうして臨んだアルゼンチンでのIOC総会。最後のプレゼンテーションを前に、太田選手はこのような言葉を残しています。
「いよいよ決戦当日の朝を迎えました。勝負服の紺色ブレザーを着て。最後の最後まで戦い抜きます。仲間を信じて。」
自らの技量の向上のみを考えていた、かつての「孤高の剣士」の姿はそこにはなく、仲間を信頼し、周囲の人の応援を力に変え、目の前のことに全力で取り組む一人のアスリートの姿がありました。
「TOKYO!」
2020年東京オリンピック決定の瞬間。太田選手は席から立ち上がり、全身の力を込めてガッツポーズしながら、涙を流していました。
このエピソードに触れて思うのは、「自分のためではなく誰かのために行動する」というのはやはり格好いいなということ。
どんな行動でも、自分のためと考えるよりは、誰かのためというモチベーションがある方が、やる気にあふれ、パワーも満ち満ちてくるのでしょう。
啓明館のスローガンは「学力をもって“社会に貢献する”人材」です。
自分のためではなく、誰かのため。啓明館で学んだ生徒たちには、そんな行動ができる人になってほしい。心からそう願っています。