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ホーム > みずなし・こばなし > 三角関数と古文

三角関数と古文



以前からずっと、なぜ勉強するのか、ということは考えてきました。

より具体的に言えば、学校で学ぶ様々な教科および科目は、学ぶ必要があるのかということ。

現在6年生は非常に難しい単元に突入しています。点と図形の移動や立体の切断。加えて化学計算や、熱力学。もちろん、私たちがそれらの難しい単元をカリキュラムに組み込んで子どもたちに教え込んでいく理由はと問われれば、「入試で出題されるから」という単純明快な解答に落ち着くのですが、なぜこんなことまで学ばなければならないのかという声は実際に子どもたちからも聞かれますし、大人だって学生時代に一度くらいは疑問に思ったことがあるでしょう。

こういった議論が起こった時に真っ先に槍玉にあがるのが、三角関数と古文ではないでしょうか。両者とも、「日常生活でめったに使わない」ために学校で学ぶ必要はない、という意見が百出しているような印象です。
個人的には三角関数も古文も比較的好きな内容ではあるので、そういった批判がなされるといささか寂しい気持ちになるのですが、確かに今生きていてそれらを活用しているかというと、古文はもとより三角関数はほとんど使いませんから、首肯しがたい部分はあります。

では三角関数をかつて勉強したことを後悔しているかと言われると、それは違います。私だけではなくこの文章をお読みになっている皆さんも、「何かしらの知識を得たこと」を後悔した経験はおそらくないと思います。

であるからして、「なぜ様々な内容を学ぶ必要があるのか」という問いに対する現時点での私の解答は「日常に役に立つ/役に立たないは二の次で、ただ知るためである」という感じでしょうか。学習内容は、役に立つか立たないかで語るべきではなく、ただ単純に多くのことを知識として蓄えておくことが大事なのだと思います。

先日の4年生の授業で、人間は言語によって思考するということの具体例として、「虹が七色ではないこともある」という話に触れました。虹の七色ははっきりとした境目があるわけではなく、それを何色ととらえるかはその国の文化によって異なります。色の認識のしかたが違ったり、色に名前がついていなかったりという理由で、七色よりも多く見えたり少なく見えたりする場合があるという話です。つまり、言葉や文化によって見る対象は同じでも異なる見え方をする、ということです。
自分とは違う考えを持つ他人もいることを知っていれば、例えば自分の文化や価値観を他人に押し付けるのみ、という行動は戒められるかもしれないし、この話に興味を持った生徒がさらに自ら学びを深め、将来多文化交流の分野で活躍する可能性だってあります。
すなわち、何か知識を得ることで逆説的に知らない知識が存在することが分かり、その気づきが次なる学びにつながるのではないでしょうか。

このように、何かを知ることの効用は、「日常の“解像度”が高くなること」だと思います。解像度が高くなることは良いことであるはずです。先ほどの虹の例でいえば、人によって物の見え方が違うということは虹に限らず様々な場面で生じる事象であって、そこから他者とのコミュニケーションにおいて、思いやりの気持ちが生まれうるでしょう。
すなわち、自らを取り巻く世界に対する解像度が高いということは、それだけ一層世界の細かい部分まで見られるのと同義であるでしょうし、物事を一面的でなく多角的に捉えることにもつながっていくはずです。

多くの知識を蓄えることは、最終的に、よく言われる将来の「答えのない問いにあふれた社会」において、問題解決能力の向上であるとか、意思決定の質の向上に貢献することになるのでしょう。

だからこそ、啓明館に通う生徒たちにはいろいろなことを知ってほしいし、同時に更なる知識を得ようとする積極性を持つ人間になってほしいと心から思います。また、そう思うからには私を含め啓明館の教師自身が、自ら知ろうとする姿勢を持たなければなりません。もちろん、一度得た知識を常にアップデートする必要があるのは言うまでもないでしょう。そうして得た知識を、将来の日本を、そして世界を背負って立つ子どもたちに伝えていく。

知識そのものだけでなく、知識を学び取る姿勢を子どもたちに波及させていくのも啓明館の使命のひとつだという意識を持って、これからも日々の指導に邁進していこうと思います。