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境界線



「みずなし・こばなし」の連載が始まって1年になります。いつもお読みいただきありがとうございます。

さて、最近スマホ(Android)のOSアップデートが入りました。いくらかのユーザーインターフェースの変更に加え、アップデートを最も実感したのは、LINEの通知がくると自動で返信文面の候補を考えてくれること。目を瞠ったのは「○○さん、体調不良で欠席です」というメッセージが来た際に、返信候補に「了解です。お大事に」が含まれていたこと! 「了解」という相槌のみならず、気遣いのメッセージまで機器が自ら判断して候補に挙げたことに驚きを禁じえませんでした。
過去には「将来的に人間の仕事のおよそ50%が機械に代替される」という論文が発表され話題になりました。AIやそれに係る電子機器が大きく発達し、その論文の通りの未来が近づいているのかもしれません。

興味がある分野のWebコンテンツを検索なしで表示してくれるシステムもあります。私もその機能を利用して「学力が高い人はなぜ学力が高いのか」であるとか「学力が高い人が小さい頃に経験した〇個のこと」といった、自らの生徒指導に資することになりそうな記事をいくつか読んでみました。

その中に私がこれまで上手く言語化できなかったことを述べている記事がありました。
いわく、所謂「学力が高い人」というのは、勉強を勉強と捉えていないというか、勉強以外の部分も勉強に繋がるのだという認識が(意識的にか無意識的にかは個人差があるでしょうが)どこかにあるということ。言うなれば「勉強とそれ以外との境界線が曖昧である」ということでしょうか。もしかしたら、境界線そのものがないのかもしれません。

勉強を勉強として、すなわち「テストに出る内容だから」といった義務感を持って捉えると、どうしても気が向かなかったり味気なく感じてしまったりするものです。
世界がどのように構成されているのか。社会はどのように動いているのか。机上の勉強というのは、実はそれらを知るための手がかりのひとつでしかないのかもしれません。そう考えると、世界を知るヒントは日常のいたるところに転がっています。

例えば小説や漫画などのフィクション作品。多様な語彙から登場人物の感情の機微に触れたり、世界観のモチーフになっているものへの理解を深めたり。ゲームだって、RPGなんかで使われる呪文の名前などから外国語への知識が深まるというのもしばしばです(だからといってゲームのやりすぎが禁物であるとは、言うまでもないでしょう)。

あるいは、日常の何気ない散歩。公園や路上の植生に目を向けたり、虫たちの声に耳をすましてみたり。さらに足を伸ばして、どこかの観光スポットを訪れたら尚更です。

だからこそ、私に限らず啓明館の教師は、授業の中でその内容に即して「ほら、あのCM見たことある?」とか、「スーパーに並んでいる野菜の〇〇は△△県産が多いよね」とか、そういったことを話すことがあります。我々もテキスト等による「勉強」と生徒たちの「日常」との境界線を取り払おうとしているのです。

境界線、ということで言うならば、学力の高い人たちは、科目と科目の境界線もきっと曖昧でしょう。理科で得た知識は社会でも登場することがあるし、算数で養った論理的思考力は国語の文章読解にもきっと役立つはずです。

いずれにせよ、我々が目指すところの知的好奇心の喚起や「学力を以て社会に貢献する人材の育成」という教育理念の本質は、今まで述べてきたような“境界線を取り払う”のを促すことであるように感じられます。ある方面で得た知識・経験を、別の方面にも活用する。そういったことが、短期的には学力の伸長につながり、長期的には将来の教養を育むことにつながるのでしょう。そしてそれはきっと、日進月歩の進化を続ける電子技術に仕事を奪われないことにもつながっていくのかもしれません。